遠藤慶隆三郎幼名で書いたものが残つていることは珍しく貴重である。
城下町夜話(2006年2月28日・4月27日)で、高橋教雄さん(郡上市文化財審議委員)が発表した新史料。安養寺(郡上市八幡町)宛。   「郡上古日記」所載。
信長公記巻下  もりべ合戦の事(森部の戦い) ↓(下へ)
 永禄4(1561)年5月13日信長公は木曽・飛騨の両大河を渡り、勝村(岐阜県平田町)に陣を構えた。西美濃方面への出兵である。
 この動きに対し、美濃勢からは翌14日、長井甲斐守・日比野下野守らが豪雨をおして墨俣から兵を繰り出し、森部(安八郡森部)まで進んできた。敵のこの拙速な進軍を見た信長公は、「天の与うる所」とほくそ笑み、全軍楡俣川を押し渡って敵勢へ殺到した。
 戦は数刻にわたる乱戦ののち、信長公の大勝に終った。  美濃勢は大将の長井・日比野をはじめ百七十人余が討ち取られた・・・・・「或暇人之間」の信長公記の私訳より
 永禄4年(1561)、墨俣から森部で信長軍に大敗した美濃・斎藤龍興方千代の父・遠藤盛数は、この戦で身も心も相当な傷を負いました。そのため、女共妻である千代の母)や、三郎(千代の兄の遠藤慶隆のこと)たち家族を井ノ口(岐阜)へ呼び寄せている手紙です。
父・遠藤盛数は翌年の永禄5年、井ノ口で病死します。長男・慶隆は13歳でした(千代5歳ころ)。
盛数の妻(千代の母)は翌年、永井(長井)隼人=斉藤龍興の叔父か伯父、と再婚
させられます。
十四日
六郎左
2006年5月2日 掲載  川上
妻の友順尼(千代の母)のこと
山内一豊夫人顕彰会へ
信長公記とピツタリ一致
郡上古日記

岐阜県立図書館蔵より
上書に

安御坊さま?人
々御中
御わたして候て可被下候
又此日記憑人進候天然打死候ハ

せかれに
女共三郎はじめ皆
々よひこし申すべく候

五日の間
内容家族を全員、井ノ口(岐阜)へ呼び寄せる(墨俣の戦で敗れ重傷)
千代の父・遠藤盛数(初代・郡上八幡城主)の手紙(写し)
甲斐守×
×

×闘
にて打死候

無是非次第候

原文写し
合戦あるべく候

自然如何ミち候

以上

かしく
大すミうけ取被申候

其御こころへ被為候我
ましく候

是非打死一たんニ究候へく候

其四之事ハ
我等身退の事共よわミ成共とかくの首組有
爰許体之事十三日須股口
にて
日比野下野守

六郎左
遠藤六郎左衛門盛数のこと
三郎は千代の兄の遠藤慶隆のこと
大すミとは本家の遠藤大隅守のことなのか
盛数死去は永禄五年四月十日

乗性寺に葬られる

浄智院殿釈西順

六郎左衛門様御状之写