「古今和歌集」につながる(とう)人々(その1)
千葉常胤(千葉県) 郡上の東家歴代城主が勅撰和歌集に入歌
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@東胤頼─A東重胤─B東胤行(郡上へ)─C東行氏─D東時常─E東氏村─F東常顕─G東師氏─H東益之─I東氏数─J東常縁─K東元胤─L東常慶─┬─東常尭(常慶・常尭で東家は滅ぶ)   
  ※この色の城主は全員入歌。東常縁時代から勅撰和歌集は出ていない。
  
宗祇に「古今伝授」したのがJ東常縁です。
        L東常慶─┬女(友順尼
               │   ┠─遠藤慶隆
               ┠──┠─遠藤慶胤
               │   ┠─女(山内対馬守室=一豊の妻・千代)
              (遠藤盛数

郡上へ東(とう)氏が来たのはB東胤行が最初でした。承久年間(1220年頃)のことでした。
胤行は源実朝と次の和歌を詠み交わしています。

        沖つ波 八十島かけて住む千鳥
            心ひとつを いかが頼まん  (実朝)
 返し  浜千鳥 八十島かけて通うとも
            住み越し浦を いかが忘れそ (胤行)
                  「金槐和歌集」(源実朝の歌集)
 鎌倉を離れる胤行に送った実朝の歌です。将軍実朝は鶴岡八幡宮で暗殺されますが和歌の達人でした。この歌は「続拾遺集」に入選しています。
 また、
東胤行は和歌の才もあるため藤原定家の孫娘(為家の娘)と結婚しました。
有名な「小倉百人一首」は藤原定家の撰んだものです。東家の人々はその血筋なのです。
 
山内一豊の妻となった千代≠フ母(L東常慶の娘・友順尼)が、東家伝来の「古今和歌集」を娘「千代」に伝えたことが有力視されます。血筋を証明するためです。母には東家の家来・埴生太郎左衛門が終生の付人となっていました。
 「古今和歌集」と「徒然草」を2代目藩主山内忠義に見性院(千代)の形見として授けられたことが山内家の記録に残っております。(見性院は一豊死後京都で11年間過ごします。)
 そしてなんと、山内家は郡上領主・J東常縁直筆の古今和歌集と冷泉大納言為秀卿筆の古今和歌集を、それぞれ5代将軍徳川綱吉生母・桂昌院と、綱吉正室とに献上したとの記録もあります(「徳川実記」)。J東常縁は宗祇法師に古今伝授をした人で、当代の「古今和歌集」研究の第一人者だったことが目を引きます。
 冷泉大納言為秀は冷泉為相の子です。十六夜日記で名高い歌人・阿仏尼の孫になります。そうそうたる顔ぶれの中に東家の人達は身をおいていました。(なお、郡上市でもっとも大きな寺・安養寺宝物殿には冷泉為相筆の「伊勢物語」が残されています。)
 
【山内一豊の妻】
東家:勅撰和歌集入歌の例
胤行の父・重胤も藤原定家の弟子で和歌に優れておりました。
東家には他にたくさんの歴代城主が勅撰和歌集に名を連ねています。
この東胤行をまつる乗性寺(郡上市美並町苅安)で一豊の妻(見性院・千代)の母・友順は、大坂石山合戦後に信長から難を逃れ郡上へ来た教如上人から得度を受けました。母と付人・埴生太郎左衛門の名を記した過去帳があります。この埴生家は東氏が鎌倉時代に千葉県から郡上へ入部したその時以来の家臣です。

  
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